👀私の視点・「多様性のある学校」の落とし穴

#まゆ潜入レポ

萩原麻友(ハギワラマユ)のブログへのご訪問ありがとうございます。

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今回は、2023年6月に実施した海外の学校見学で感じたことを率直に書きます。

子どもの教育環境を選ぶ基準のひとつに「なるべく多様性のある学校」を挙げられる保護者の方がよくいらっしゃいます。

また、学校出願のときの志望理由にも「この学校は多様性があるから」と書かれる方も珍しくありません。

学校担当者も「私達の学校は多様性に配慮しています」とアピール文句に使うこともあります。

この「多様性」というキーワードはちょっとやっかいです。

口にする人によって、また受け取る人によって、「多様性」で意図するイメージ自体が多様です。

相手によって意味合いがまったく違ってくるので、私は確認のためにたずねます。

「どういう条件が揃えば「多様である」といえますか?」と。

人によって「多様性」のイメージが違う

ここからは「学校内の多様性」という文脈で考えていきます。

どういう学校なら、「多様性がある」といえるのでしょうか。

たとえば…

ひとりひとりの「個性」がありのままに許されていて、同質性を押し付けないこと?

「みんな違って、みんないい」みたいな?

それとも…

子どもの特別な学習ニーズにそれぞれ対応できる学校?

子どもや先生の国籍や民族関係なく学び合える学校?

子どもや先生の身体や内面の障害の有無に関係なく学び合える学校?

子どもたちの家庭の社会経済的地位のばらつきに偏りが少ない学校?

どんな進路やキャリアも偏見やえこひいきなく応援してくれる学校?

性の多様性などの対応も期待できる学校?

いろいろありえます。

一部でも当てはまれば、「多様性のある環境」だといえるのでしょう。

一番響く「多様性」の指標は人によって違うのが、実際のところです。

いずれにせよ「多様性」には理解があり、免疫があったほうがなんか良さそうだ、とは思われているようです。

学校によって「多様性との向き合い方」が違う

いろんな学校を見ていて思うのは、

いずれかのパターンでも「多様性のある学校」であったとして、

その多様性への向き合い方はその学校コミュニティによって異なること。

「うちの学校はこんなに多様な生徒たちがともに学んでいます」と学校がいうときに、その実態をよく見てほしいです。

様々な違いがあることをわかったうえで、子どもたちを一つにまとめる方向で秩序を保っているのか(こっちのほうがおそらく管理は楽)

それとも

様々な違いから生まれる衝突を辞さずに、ぶつかり稽古を重ねてバランスを保っているのか(よりダイナミックで、リスクもリソースも伴う)

いずれのタイプでも「多様性ウェルカム」「こんなに仲良くやっています」と言うことは可能です。

でもこの2つだけでも、多様性の扱い方に違いがあることがわかるでしょうか。

「多様性を受け入れる」って口でいうほど簡単ではない

私が90年代に通っていたインターナショナルスクールも、00年代に通っていたボーディングスクールにも、国籍・民族・宗教のバリエーションは一般的な学校よりもあったとは思います。

小2で転入したインターで最初に友達になったのは韓国人とボリビア人でした。

先生も、フィリピン、アメリカ、カナダ、オーストラリア、日本などなどいろんな出身地と人種の方です。

でもそこで起こる「カルチャーショック」のようなものは、意外と最初だけ。

いくら「初めて会うタイプのひと」であっても、一度知り合ってしまえば当たり前になるのでいちいち「多様性」を感じることは薄れていきます。

ある意味、贅沢なことかもしれません。

国籍や出身地や宗教・思想など、「ラベル付け」できるタイプの「多様性」は、たくさんある個人の側面のほんの一部、氷山の一角しか表していません。

仲良くなってしまってから、「あら、あなた○○人/△△教だったの」と判明したりします。

むしろ、そんな使い古しのラベル付けが追いつかない、カテゴライズしづらいタイプの「多様性」の層がよっぽど厚いことにも、いつしか気づきます。

そしてそれをすべて把握し、受け入れることには限界があることにも、気づきます。

「多様性を受け入れる」って言葉にすると簡単だけども、実際には無理難題です。

私の友人は中学生の頃、進化論を否定していました。

進化論を受け入れていた私は、彼女が「間違っている」というスタンスで進化論が合理的である理由を話しましたが、時間がなくなっても彼女が進化論を受け入れることはありませんでした。

ほかのことでは笑い合ったり同調したりできる友達でも、ここまで平行線でわかりあえないこともあるという事実は、結構衝撃的でした。

相手が私の意見に賛成してくれないからといって、私自身の信念や存在を曲げる必要がないということは、こうした体験を通して少しずつ学んでいきました。

相手との違いを認めつつ、自分も受容するプロセスは、忍耐も根気もいることです。

多様性のある学校の矛盾

私が中学時代に経験した「進化論」論争は、まさに「多様性がある学校」だからこそできた体験かもしれません。

たしかに、そういう学校に集まっているひとたちは、ある意味「多様性があること」「意見が食い違うこと」を前提として集まっています。

ですので、学校にいる間は「世界には色んな人がいる」「全員違ってそれでいい」「違いを尊重しよう」という理想論のもとコミュニティが成立します。

トラブルがあっても、平和的で建設的な解決を目指そうとするひとばかりです。

でも一旦卒業してしまえば別世界です。

学校の外、つまり一般社会では、

だいたいどこにいってもマジョリティとなる集団の独占か寡占と、マイノリティの寄せ集めで構成されています。(個人的な見解)

「男はこれだから…」「女はどうせ…」

「最近の若者は…」「あんなの老害でしかない」

対話や理解よりも、集団に分かれて対立や決めつけが起こるのが当たり前。

さらには対話や理解が必要な場面にそれが欠けていることにすら気づかず、

相手や状況を理解しようとする努力すら怠る、または無力感にかられている。

この状態がむしろデフォルトです。自然です。

「多様性が前提の学校」にいる間は、自分が相手の方を向きさえすれば、相手も自分を向いてくれるものです。

でも実社会ではそっぽを向かれることがデフォルト。

「多様性が前提の学校」では、「理解しようとしない」「話を聞こうとしない」相手に遭遇することのほうが少ないのです。

だからこそ社会に出るときは、目線すら合わない相手に対面したときに困惑するかもしれません。

免疫がないのですから。

せっかく「多様性への耐性」をつけてくれるはずの学校。

唯一の弱点ともいえるのが、実は「多様性への無理解」という多様性との遭遇経験不足です。

私自身、「多様性に寛容な特殊空間」で長く過ごしたあとに実社会で苦労しています(笑)

どんな学校でもできること

だからといって、「多様性がある学校」に意味がないとは思いません。

「多様性がある学校」は、期間限定にせよ特殊なコミュニティを提供することで、生徒は安心してぶつかり合って学ぶことができます。

でも「多様性」って、そういう学校に行かないと経験できないほど珍しいものだとも思いません。

どんな学校に通っていても「多様性」=「自分とは異なるもの」との遭遇経験はあると思います。

一見「多様性とは無縁にみえる学校」に通っていても、多様性理解の素地は作れます。

むしろ通っている学校はあまり関係ないかもしれません。

子どもの学びは、身近な大人(つまり保護者)から始まっています。

だから、大人ひとりひとりが普段から気をつけたいことはこの4つ。

相手の好奇心を真っ向から否定しないこと。

根拠のない先入観を自制すること。

気持ちいいコミュニケーションに努めること。

相手との違いではなく、共通点を探すこと。

全てをいつも完璧にできるひとは中々いません。人生ずっと続ける修行です。

この4つを気をつけていると、周りからは「敬意」「信頼」「忍耐」「誠実さ」などを持ち合わせていると評価されやすくなります。

私は、この4つの重要性を認識しているひとたちばかりではないことを、実社会で学びました。

でも本来、学校という特殊空間じゃなくてもこの4つは意識すれば取り組めることばかりなんです。

学校は魔法の箱ではないし、特効薬でもありません。

「多様性のある学校」に行かなくても今すぐ取り入れられる多様性理解のための4つのコツでした。

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私は今後も保護者や子どもたちのために子育てや教育や進路に関する情報を発信していきたいと考えています。

子育てや教育に正解はありません。でも自分なりのベストに近づく努力はできます。

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